国会議事堂中央ホール 幅5m×高2.5m

沿革

明治23年(1890年)ステンドグラス伝来

明治伝来からの技術を受け継ぐ直系工房

明治18年、日本で内閣内閣制度が発足すると議事堂建設の取り組みが始まりました。1886年(明治19年)、内閣に臨時建築局が設立、ドイツ帝国から建築家を招聘して官庁集中計画と議事堂の設計が成され、「国会議事堂の自力建設」という政府の方針により、国会議事堂建設の原案製作にあたったベルリンのエンデ・ベックマン事務所の紹介で技術の収得を目的とし、20名がドイツに派遣されました。

ビョクマンは六名の職工を選抜してビョクマン貸費生となし、往復旅費及び在學満三カ年を負担せり。其の卓見と熱誠なりしこと夫れ此の如かりき。政府より派遣員左(注:原文は縦書き)の如し。

技師 妻木頼黄 渡邊譲 河合浩蔵

職工八名 石工 大工 人造石左官 煉瓦職 ペンキ職 屋根職 石膏職

浅野總一郎より依頼同行者二名は坂内冬蔵 浅野喜三郎

深谷煉瓦会社より大高庄衛門

ビョクマン貸費生は次の六名なり

加瀬正太郎 山田信介 斎藤新平 宇野澤辰雄 内藤陽三 清水米吉

以上正木工業學校長の推薦にして、加瀬は鍵及び煉瓦工、山田は飾工、斎藤は壁天井等の絵職、宇野澤はステインド硝子及びエツチング。何れも工業學校(現東京工大)の第一期卒業生なり。外の二人は、内藤陽三(美術家)清水米吉(建具職)にして清水は河合浩蔵の推薦なり。 是に於いて技師三名と高等職工十七名は、明治十九年十一月十六日出發して翌廿(20)年一月独逸に渡航し、各担當(当)用務を研究し、三年を経て明治二十二年帰朝し、諸工事の賽(実)施に當(当)たれり。 (明治工業史建築編)

宇野澤辰雄は、ベックマン貸費生としてステンドグラス・エッチングの分野でドイツに留学、ベルリン到着後はベックマン邸に入り連日ドイツ語を勉強した。2ヶ月後、ルイ・ウェストファル工房にて技術を習得。毎日12時間の労働の後、夜はドイツ語の勉強も続ける。「此の間に於ける彼等の苦心賽に察するに余りあり(同書抜粋)」

明治23年(1890年) 宇野澤辰雄、ドイツより帰国、工房を興す

ベルリンのルイ・ウェストファル工房にて技術を習得。帰国の際11種類のキャセドラルグラス・鉛線挽き機・工具などを持ち帰り、芝区新銭座4番地にてステンドグラスの製作を開始しました。ここに日本で最初のステンドグラス工房が興されました。

明治政府臨時建築局による国会議事堂建築は、その後時代の流れに延期を余儀なくされ、大正9年(1920年)に着工、昭和11年(1936年)に完成しました。

昭和5年(1930年) 松本三郎、宇野澤スティンドグラス製作所に入所

国会議事堂ステンドグラス製作の最中、宇野澤の最後の弟子として、弊社創業者松本三郎が宇野澤スティンドグラス製作所に入所しました。主に国会議事堂に携わり、新銭座(現浜松町)からステンドグラスを大八車に乗せ、日比谷の坂を何度も押して上ったそうです。平成7年の大改修では、ステンドグラスの鉛線に、松本三郎を含む宇野澤の職人の名が彫られたものが発見されました。

昭和23年(1948年) 松本スティンドグラス製作所創業

戦時中、宇野澤製作所は職人が戦争で離散し、空襲により作業場・材料・道具の大半を消失し戦後自然解散となりました。昭和23年、松本三郎は宇野澤の跡目を継ぐ形で、東京都中央区日本橋浜町に松本スティンドグラス製作所を創業しました。

平成30年(2018年) 創業70周年

現在、二代目社長松本健治により、宇野澤の直系工房として創業当時より変わることなくステンドグラスの受注製作・修復専門工房として当時の技術を受け継ぎ、更に改良を重ね、世界最高水準の強度にこだわる技術集団としてステンドグラスの製作に励んでおります。平成30年(2018年)、株式会社松本ステインドグラス製作所は創業70周年を迎えました。