国会議事堂中央ホール 幅5m×高2.5m

歴史

中世ヨーロッパの教会では壁画に描かれた聖人に神(光)が宿るものがステンドグラスであり、精神的な意味合いを持つものでした。

アメリカでは19世紀に興ったアールヌーヴォによりステンドグラスが芸術として華咲きました。

日本人の手に依ってステンドグラスが作られるようになったのは文明開化に遅れること20年。

それは建築と共に室内装飾品として伝えられました。

文明開化によって伝わった西洋建築。

その集大成として国力を尽くして政府の中枢である帝国議会議事堂を建設するにあたり自国に技術のなかったものをドイツへ学びにいく。これがステンドグラスの始まりです。

日本のステンドグラス史(~戦前)

*原文抜粋の( )は現代訳、または当サイト独自の解釈・注意点です。

小川三知、宇野沢ステンド硝子工場など、ステンドグラス史研究家田辺千代氏により研究が進められており、当サイト内の掲載年度等に誤りがあることがわかりましたが、現段階では修正及び情報の追加は致しませんのでご了承下さい。歴史的調査史料として転載希望の方には正式年度をお知らせ致しますのでご連絡下さい。

日本におけるステンドグラスの歴史 明治~昭和初期

「ステインドグラスは漸く西洋建築の盛んとなりし以来、其の需要を増すに至りしが、本品の我が國に傳来(伝来)せし始めは何れの時代なるか詳ならずとも、其の技術を傳(伝)えたるはおそらく宇野澤辰美(辰雄の誤り)なるべし。(明治工業史 化學工業編450ページより抜粋)」

宇野澤辰雄 (慶応2~明45)(宇野澤家 所有)

日本におけるステンドグラスの歴史は、宇野澤辰雄による「宇野澤ステンド硝子工場」が始まりである。

明治19年 明治政府による臨時建築局の設置 <2/17~23年3月>

明治18年12月廃省となった工部省営繕課に替わって次代の洋風官庁建設の中心となったのは、臨時建築局である。 臨時建築局は、来るべき国会開設に備えて、帝国議会議院建築(国会議事堂)をはじめ、中央官庁街を日比谷の地に建設するために明治政府が設けた組織である。

鹿鳴館

「この明治20年前後というのは、欧米崇拝熱の絶頂に達せし時で、半ば欧化せる紳士淑女は鹿鳴館裡仮装会の舞踏会に春の夜の短きをかこつのであった。(当時の文献より抜粋)」

期間は4ヶ月という短期間ではあったが、これまで支配的であったイギリス系の西洋建築技術(コンドルの実地・教育の両面 での貢献が多い)と対立的に、ドイツ系建築技術が導入され、同時に技師・職工らのドイツ派遣留学による技術の習得・普及および煉瓦生産の本格化など、わが国の明治時代の西洋式建築技術導入の歴史上見逃すことのできない貢献をした。

ドイツより、ウィルヘルム=ベックマンが招かれる。 <4/28> 

臨時建築局はドイツ政府に、建築家の推薦を依頼。ドイツ政府は、快く当時一流の建築家エンデ及びベックマンの両氏を推薦。

ベックマンとエンデ(翌20年5/4来日)は、帝国議院・司法省及び裁判所の計画図を携えて来日。 ヘルマン=エンデは当時、ドイツでも著名な建築家で、きわめて芸術肌の人物で、もっとも得意とするところは、ルネッサンス式を自由に操る点であったため、美術方面 を担当。

ウィルヘルム=ベックマンは、実地に詳しい建築技術者であったため、構造的な方面 を担当する。

ベックマン、ドイツへ帰国<7月>

ドイツへの留学団20名出発<11/13>

「国会議事堂の自力建設」という政府の方針により、国会議事堂建設の原案製作にあたったベルリンのエンデ・ベックマン事務所の紹介で技術の収得を目的とし、20人がドイツに派遣された。

派遣団のリストは次の通り。(明治工業史建築編より抜粋)

(略)ビョクマンは六名の職工を選抜してビョクマン貸費生となし、往復旅費及び在學満三カ年を負担せり。其の卓見と熱誠なりしこと夫れ此の如かりき。政府より派遣員左(注:原文は縦書き)の如し。

技師 妻木頼黄 渡邊 譲 河合浩蔵

職工八名 石工 大工 人造石左官 煉瓦職 ペンキ職 屋根職 石膏職

浅野總一郎より依頼同行者二名は 坂内冬蔵 浅野喜三郎

深谷煉瓦会社より 大高庄衛門

ビョクマン貸費生は次の六名なり 加瀬正太郎  山田信介  斎藤新平 宇野澤辰雄

以上正木工業學校長の推薦にして、加瀬は鍵及び煉瓦工、山田は飾工、斎藤は壁天井等の絵職、宇野澤はステインド硝子及びエツチング。何れも工業學校(現東京工大)の第一期卒業生なり。外の二人は、内藤陽三(美術家)清水米吉(建具職)にして清水は河合浩蔵の推薦なり。 是に於いて技師三名と高等職工十七名は、明治十九年十一月十六日出發して翌廿(20)年一月独逸に渡航し、各担當(当)用務を研究し、三年を経て明治二十二年帰朝し、諸工事の賽施に當(当)たれり。
(以上、明治工業史建築編187~188ページより抜粋)

建築編では宇野澤とあるが、帰国後、養父の姓を名乗ったため、当時は旧姓の「山本辰雄」である。 宇野澤辰雄は、ベックマン貸費生としてステンドグラス・エッチングの分野でドイツに留学。ベルリン到着後はベックマン邸に入り、連日ドイツ語を勉強した。2ヶ月後、ルイ・ウェストファル工房にて技術を習得。毎日12時間の労働の後、夜はドイツ語の勉強も続ける。「此の間に於ける彼等の苦心賽に察するに余りあり(同書抜粋)」

明治23年 宇野澤辰雄、ドイツ留学より帰国(1/8)

山本辰雄は、帰国後、養子先の姓を名乗り、宇野沢辰雄となる。

ベルリンのルイ・ウェストファル工房にて技術を習得。また、帰国の際11種類のキャセドラルグラス・鉛線挽き機・工具などを持ち帰る。

宇野澤辰雄、ステンドグラスの製作を開始。

帰国後、芝区新銭座4番地にてステンドグラスの製作を開始する。

最初の弟子として、別府七郎に技術を伝授する。

明治27年 司法省海軍省 その他多くの歴史的な作品を残す。

明治29年 裁判所(現在も東京・日比谷公園西に現存)

「此の建物に用ひたるステインド、グラスは独逸国に於いて其の工作を研究して帰朝せし宇野澤辰雄の創意に係るものなり
(明治工業史建築編635ページより抜粋)」

日清・日露戦争を経て、ステンドグラスの需要も次第に減少し、 宇野澤はポンプ業を開始。宇野澤組鐵工所100年誌「ウノサワ100年の歩み」によれば、これは明治32年(その後、宇野澤組鐵工所として、平成11年、創立100周年を迎えました。)

しかし、宇野澤辰雄がステンドグラス業を廃業ではなく、ポンプ業と並行して営んでいたのではないかと思われる記述が、明治45年発刊の「建築工藝叢誌」の中で「丁々生」氏によって以下の様に書かれている。

洋風建築が現在(明治45年当時)のやうに進歩發達して居なかった其の時分の事故、建築其物より数歩、数十歩先んじて居たスティンド硝子は、其當時(その当時)は實に(実に)其用いゐらるることが少なかつた。それが爲め(その為)宇野澤氏は、折角獨逸から得て來たものではあるが、此の技術を棄てて、他の仕事に従事しやうとも思つたのであつたが、其頃氏のスティンド硝子製作に助手をして居つた別府氏が宇野澤を援けて(たすけて)、苦しい中を忍むでやつて來た甲斐あつて、漸く(ようやく)今日の需要に間に合ふことが出來たのである。若し其當時に、別府氏が宇野澤を援ける事なく、宇野澤氏が他の仕事に轉じて(転じて)居つたなら、其後如何に新しい建築が出來ても、この室内装飾は、外國に其の供給を仰がなければならなかつたのであろう。宇野澤氏と別府氏とは、窮境に堪えて、克く今日までこの裝飾法を導いたのである。別府氏は我國スティンドグラスの中興の人である。そして昨年宇野澤氏歿(没)後は、別府氏はスティンド硝子の唯一の製作者であつたのである。
(実際は宇野沢辰美も木内真太郎もいたので誤りかと思われる)

明治39年 宇野澤ステンド硝子工場設立

辰雄の養父宇野澤辰美、別府七郎・木内慎太郎と共に、宇野澤ステンド硝子工場を設立

初代 宇野澤辰美

二代 宇野澤重治

三代 宇野澤秀夫

東京土木建築総覧(大正13年/土木建築社刊)によると、創業を明治25年としており、これは宇野澤辰雄が帰国後、ステンドグラス制作を開始した時期と一致する。

洋風建築も盛んとなり、宇野澤辰美、別府七郎、木内慎太郎の3人共同でステンドグラスの事業を経営。現在にも残る創世期のステンドグラスの名作が数多く製作され、次第に盛んになった。

明治43年  小川三知、小川スタジオを開業

アメリカより帰国した小川三知は東京田端に小川スタジオを開業。

明治44年 宇野澤辰雄死去(6/23)

大正2年 別府七郎、宇野澤より独立。京橋区入船町2丁目(現在の東京愛宕)に別府製作所を開業

大正5年 木内真太郎、大阪の末吉通り4丁目に宇野沢組ステインドグラス工場大阪出張所を開業

(その後、玲光社と名前を変え、現在に至る。)

大正6年 「横浜開港記念会館」

大正8年 宇野澤辰美死去(1/7)

大正9年 国会議事堂起工(~昭和11年)

大正11年 木内、天王寺南河堀町に移転(10年)後、玲光社大阪店と改名

同時に、辰野事務所の所員であった三崎彌三郎、木内の資金等援助を受け、玲光社東京店を開業。

昭和5年松本三郎、宇野沢ステインドグラス製作所に入所

昭和12年 国会議事堂完成

昭和20年 宇野澤スティンドグラス製作所、戦災により解散

東京大空襲により新銭の工場が焼け、倉庫にあった道具・ガラスなどを全て消失。それに加え職人の離散や、戦災による圧倒的なダメージにより、自然解散となり、

昭和23年 「松本スティンドグラス製作所」創業

宇野澤の職人であった松本三郎は、戦後、宇野澤時代の職人に先駆けて、東京都中央区日本橋浜町2-44に「松本ステインドグラス製作所」を開業する。この社名は、先代松本三郎がいた当時の宇野澤の名称が「宇野澤スティンドグラス製作所」であったことに由来する。

その前にも後にも、宇野澤時代の職人が工房を開業することはなかった。

現在の宇野沢のながれ

現在、その技術が松本三郎(松本ステインドグラス製作所)、そして松本健治(現社長)に受け継がれ、日本におけるステンドグラス製作技術の普及に力をそそいでいる。(建築雑誌より抜粋)

年表 日本のステンドグラスの歴史(明治 大正 昭和)

江戸末期日本で現存する最古のステンドグラス、大浦天主堂
(これは嵌め込み輸入ガラスであるが、現存する最古の竣工ステンドであるとの解釈)
明治19年宇野澤辰雄、ベックマン貸費生としてドイツへ渡航(11/13)
明治23年宇野澤辰雄、帰国し日本人として初めてステンドグラスの技術を持ち帰る。(1/8)
 芝区新銭座4番地に「宇野澤ステンド硝子工場」を設立
明治27年司法省(現在も現存するもステンドグラスは焼失)  海軍省
明治29年大審院
明治31年宇野澤辰雄、このころに宇野澤ステンドグラスを解散。ポンプ業に転身
明治39年辰雄の養父宇野澤辰美、別府七郎・木内慎太郎と共に
「宇野澤ステンド硝子工場」を再開
明治43年アメリカより帰国の小川三知、現在の東京田端に「小川スタヂオ」を開業
明治44年宇野澤辰雄死去(6/23)
大正2年別府七郎、京橋区入船町2丁目(現在の東京愛宕)に別府製作所を開業
大正5年木内真太郎、大阪の末吉通り4丁目に宇野沢組ステンドグラス大阪出張所を開業(その後、玲光社と名前を変え、現在に至る。)
大正6年横浜開港記念会館
大正8年宇野澤辰美死去(1/7)
宇野澤組ステインドグラス製作所は宇野澤秀雄が受け継ぐ
大正11年木内、天王寺南河堀町に移転(大正10年)後、玲光社と改名
昭和2年小川三知死去 のち、小川スタヂオは閉鎖
大竹龍蔵、東京にて千代田ステンドを開業(後の大竹ステンドグラス)
昭和11年帝國議會議事堂(現国会議事堂)
昭和18年松本三郎、大立目氏より「宇野澤ステインドグラス製作所」を受け継ぐ。
昭和20年東京大空襲により新銭の工場が焼け、倉庫にあった道具・ガラスなどを全て焼失。
昭和23年東京都中央区日本橋浜町に「松本ステインドグラス製作所」を開業。現在に至る。